無言で上がる銀幕
手を伸ばしても過去は掴めない
明日を変えることも出来ない
今を生きることで扉を開けて
前を向くことで扉を閉ざして
脳の奥底に根を張ってタマゴを産む花
記憶を閉じ込めたタマゴを産み続ける花
転がり続ける現在(いま)にも似た
水玉模様のタマゴを産む花
白い陽射しの中に伸びる煙突の煙を見ていた。青空に溶けて消えるまでほんのわずかな間だけゆらめいて、逆光を孕んで影を生む
もう少し遠くまで行こうか。あてもなくそんなことを考えてアクセルを踏み込んだ。どうせ急いでいるわけじゃない。用事もない。仕事もない。学校も、待っている人も会いたい人もいない。ただ見知らぬ街にいる自分のことを今、誰も気づかず知りもしないというだけだ
幾つもの街を通り過ぎて、そのたびに知らない人と出会い続けて来た
これだけ生きて旅しても、まだ知らない人ばかりと出会う。見知った人間とだけ暮らしていることはなんと安らかで平和で、退屈なんだろう。顔を見れば自然と笑みがこぼれるような関係の人ばかりを並べて暮らしても、自分が相手にどう思われているかはわからない。鏡を見ていようが、街に出ようが、自分がその場に立っていること以外で確かなことなどないのかもしれない
これまでの生き方を悔やむときがある。仕事は長続きしなかったし、失恋もした。結局また新しい職場に入って、安い月給からやり直すことになる。それを今度も繰り返した。厭になる。そして何度イヤになっても世の中は常に動き続けているから、いつだって立ち止まるたびに追い付けなくなって遠ざかる。砂浜に足を突っ込んだまま波打ち際で呆然としているような気分で生きてきたはずなのに、歩き出して走って走って、気がつくとまた浜辺に居る。あの時ずっと続けていれば今頃それなりの給料だったんじゃないのか。でも、それを続けることが果たして出来たのか
自問自答の自己否定は自意識不在の欠席裁判へと雪崩れ込む
これではもう、何かを好きでい続けることすらままならない。本当に好きなのは、その何かなのか。それとも、何かのことが好きな自分なのか
何も出来ない、何もしようと思えない。貧すれば鈍するとはよく言ったもので、貧しさに足を取られて身動きも取れずまた沈んでゆく
いつになく広い無人の砂浜で
その砂浜は晴れてすらおらず、どんより曇って冷たい小雨が降っている。自分のせいだ、と言い聞かせて骨まで冷やすような雨が
地図を開けば届かない場所が広がる
死ぬまで通ることのないであろう道が縦横に伸びて
鉄道も高速道路もバス停も
そこに在るということだけが示されている
あぶくの舞い上がる山道を駆けのぼる。黄色い空にか細い歌声が届きそうな、オーロラ色の天気予報は雨ときどき絵。砂時計が溶けて三角形の粒々が降る。翅のないカブトムシが柊の葉にしがみついて泣いている。血も汗も涙も枯れたらここにおいでよ、限界集落の空中楼閣は湾岸道路で二時間半
犬が呼ぶ蜘蛛が走る
朽ち木を組んだ腐れ摩天楼
苔むして喉をつぶしたメガホンが叫ぶ
天国も煉獄もぬるま湯の蟻地獄
空は黄色だ海は真っ赤だ
歩く花、泳ぐ炎、不完全な神の子が叫ぶ
物悲しい歌
もう何も思いつかない。諦めて画面を見つめる。レトロゲーム、懐かしい歌、続きが始まらない物語を直しては諦める毎日。また明日になれば同じことを繰り返そうとする。今なら取り戻せると思っていたのに、何も取り戻せず、何も得られないほどの給料しか寄越されない日々が続く。死ぬくらいなら全部投げ出してしまえばいい、と思えているのが今は救いだ。でも
もっとちゃんと生きよう
今更ながらそう思ったけど、きっともっともっと遅れてしまうのだろう
波打ち際の砂浜が深く深く広く広くなってゆく
そして何もかもうずもれた砂浜を映し出したまま
最後の銀幕が降りてゆく
映写機から真っすぐ伸びた光が
もうすぐ終わる
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