If I Could Fly
地獄の底から響くような野太く低い声が、修羅場であり火災現場の八畳間にこだまする。
「この顔を見た奴に、明日まで生きてた奴は居ない」
右手一本で首根っこを掴んで持ち上げ、そのまま宙吊りにして天井に頭をグイと圧し付ける。じた、ばた、と力の入らない足をバタつかせるが、既に歯向かう気力も逃げる体力も失っているようだ。
「お前も殺す」
手をパっと離すと、力なくドサッと畳に落ちる。カメみたいに四つん這いになって蹲っている頭を跨いで、背中から胴体をクラッチする。そのまま、一気に肩の上まで担ぎ上げて、両手を腋の下に差し込むようにしてもう一段階、高いところまで持ち上げる。ちょうどコイツの腰が俺の後頭部に当たる感じ。良い高さだ。
「あ、あ……」
眼前には黒煙を巻き上げて炎上するテーブル。さっきまで衣類やカーテン、障子紙と格子だったものは殆ど灰か炭になりかけている。
「ああ……あう」
ヒトの頭の後ろでうるさいな。もうマトモな言葉も発せなくなっているようだ。
呼吸を整えて狙いを定め、次の一瞬でヒザをバネにして軽く沈ませ体ごと下から思いっきり持ち上げる勢いを使って、砂を詰めた麻袋でも放り投げるように、哀れなコイツを燃え盛るテーブルに向かって勢いよく叩きつけた。
バキャン!
と凄まじい炸裂音がして、炎が全身を包み込む。火の点いたまま飛び散った瓦礫や破片と共に、ボワっと上がった煙と灰を手で払う。
「ああああああ! あああああああーー!!」
そこには折れたテーブルの太い破片が腹部を貫通したまま業火に焼かれてのたうち回る、若い男の姿があった。僕の死んだ恋人の弟で在り、この家で唯一生き残っていた人間であり、もうすぐコイツも死体になるだろう。でも
「まあだそんな元気があるんだな。いいザマだ。そのままコンガリ焼かれてろ」
殺してやらない。どうせ死ぬんだ、このままにしておこうか。
「ああああうー、あうーっ!」
もうマトモに言葉を発することも、自由に動き回ることも出来ず、ただ家ごと燃え上がる業火と、自分に残された命の炎が反比例してゆく様を体現することしか出来ない。これでも命か、これも命か。命、いのち……。
こんなになってでも、コイツ、生き延びて命だけは助かりたいのかな……?
ふと、そんな疑問が炎の中から顔を出した。ここで死ぬ方が幸せだろうに、それでも生きてりゃ、コイツは喜びや楽しみを見出すだろうか?
「……なあ、助けてやろうか?」
畳に、襖に、障子に、押し入れの布団に、部屋中に次々と燃え移っては真っ赤に狂う炎に巻かれながら、僕は思わず尋ねた。
「う……!?」
食いしばった歯の隙間からどす黒い血を吹き出しながら、僕を見上げて怪訝な顔をする。僕が何を言い出したのか理解は追いつかないものの、やっぱり心の何処かで生きたいと、種の本能みたいなものが突き動かされているのだろう。力なく、しかし懇願するように何度も頷いた。
別に助けてやったところで僕に得は無いし、狙いも目当てもありゃしない。それに、これだけこっぴどく痛めつけられたんだ。助けたところで長くはあるまい。この先ずっと全身を覆う後遺症と古傷とトラウマを抱えて生きてくことに、果たしてコイツは気付いているのだろうか。否、今はとにかく生き延びて、この場を逃れることで精一杯なのだろう。
何から何まで効率化だの省エネルギー化だの自由化だのされつくした挙句に草木の一本まで貧しくなった、この天地を隔てるようなド格差社会で、天涯孤独の全身後遺症男が、如何やって生きて行くつもりなのか。
「いいよ、生きれるだけ生きてみな」
僕は彼の首根っこを掴んで、突き刺さった木材から乱暴に引っこ抜いた。ぶしっ! と鈍い音がして血が迸ったが、患部に手を当てて軽く力を集中させるとみるみる傷口が塞がり、血が固まってカツンと落ちた。
「さあ、あとは好きに逃げな。もう傷は大丈夫。お腹だけはね」
呆然としながらもヨタヨタとコチラに背を向けて歩き始めた後ろ姿に、何故だか急に哀愁が感じられた。コイツには家族も、家も、そして五体の満足もない。ただ命だけが残されて、このまま次こそホントに死ぬまで生き続けることになる。その体では、もはや自ら命を絶つことさえ難しいだろう。そしてその衝動に、今後一生突き上げられ苦しみ続けるだろう。僕を恨むだろう。僕を憎み、家族や故郷を懐かしみ、そして最後にはままならぬ自らを蔑み憎み哀れむだろう。
もしも僕が空を飛べたら。
話せず、聞こえもしなくなった言葉を空に浮かべて、彼はそんなことを思うだろうか──
やがて母親だった死体を残し、燃え落ちる我が家から這い出し、父と姉の足跡にも背いて、彼はエッチラオッチラ何処ぞに向かって歩いて行った。体を引きずり、心をすり減らし、どうやって生きて行くつもりなのか。
僕もこの家……だった場所を後にした。悪臭を放つ真っ黒な煙がいつまでも漂ってきて、あの老いた雌の未練のように僕の顔にまとわりつく。生き延びて逃げてゆく息子より、その息子すらも殺しかけて心身を傷だらけにした男に執着するとは。死んでも業の深いことで。
その後、彼の姿は見た事がない。彼の家族や住処に関するニュースも聞いた覚えはない。
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