#不思議系小説 第143回「Solarisの呼び声(前)」

 あれは、たぶん山羊だったと思う。
 いつからそこにいて、何を考えているのか。何のために出てきたのか。何をしているのか……それは、全くわからない。だけどある日突然、毎晩眠れないでいる僕の頭の奥に現れた。頭でモノを考えるときにイメージする、心みたいなところに、いつの間にか山羊がいる。
 ただ漠然と、山羊だ。青っぽい半透明で巨大な山羊。
 眠たそうな目玉とお馴染みの角とぼんやりとした顔の、山羊。

 遠い、宇宙の彼方に。海のような空のような、青く澄んだ丸い惑星(ほし)を見つけた。明け方前の夢に出てきたのか、夜明けが怖くて眠れなくなったせいなのか、胸の奥の暗闇にぽつんと浮かんでぼんやり光っている。
 どこまでも広く終わりのない球体は、一面がこのとろりとした薄青色の粘膜で覆われていて、よく見ると少しだけ波打っている。

 島や生き物の影はない。僕はこの惑星の上空をゆっくり飛び回りながら、波打つ表面に映る自分の顔を見つめていた。薄青色になった顔の、薄青色の瞳の奥に潜む。心のようなところで、深層心理だかなんだか知らないが、僕の行動や思考を無意識という名の意識下で勝手に操る黒子のような奴が息を潜めて嗤っていやがる。

 水面の僕の顔に濃淡が出来て、薄青色の部分と、青黒く腫れ上がった部分とが野良猫のように混じり合って、僕は痛みと悔しさと憎しみと悲しみを噛みしめて、泣き出しそうな顔をしていた。さっきまで笑ってたのは子供の頃の僕だった。今は顔の半分が薄青色で笑ってて、青黒く腫れた顔で泣いている。どっちも僕で、どっちも子供だ。

 冬の風の強い寒い日に、晴れて晴れて晴れまくったせいでちょっと青黒くなっているぐらいの空と、その遥か彼方まで伸びている紺碧の海との境目が溶けてしまうほど青い青いところから雲が飛んできて波が押し寄せてくるのを呆然と立ったまま見ていたら僕は死ねるだろうか。

 無数に存在する選択肢が刻一刻と変化を繰り返す。一秒後の世界が同じだなんて誰にもわからない。今すぐ右を選んでも、一秒後に選んだ右とは全然違う未来が待っているじゃないか。割り切れないまま道だけが分かれて、選ばずに過ぎ去って忘れてゆくはずの選択肢だけがいつまでも青い海の星に浮かんでは僕の後ろを着いて来る。

 楽しかった筈の休日、笑って過ごせたはずの古い小さな遊園地。
 だけど小さく無力な僕は大きな影の機嫌を損ね、その場で散々に殴られ引きずりまわされ、舗装の傷んだ地面を這いつくばって、痣と擦り傷にまみれながら許しを乞うている。
 周りの家族連れが遠巻きに見つめる中、係員の制止に一層アツくなった大きな影がさらに僕の背中に重く汚れた靴底を叩き込んでいる。泣き叫びながら僕は猛烈な眠気を感じて、だけどこの場で寝たら本当に殺されると思って、必死で泣いていた。

 あの痣だらけの顔は、その時の顔だった。大きな影は係員が数人がかりで何処かへ連れて行ったが、僕はその場に残されて暫く泣いていた。見上げた空が漸くにじまなくなった頃、木立の下で目を覚ましてトボトボと歩いて駅に向かった。

 長い長い上り坂を、重い足を引きずって歩く。疲労と痛みと憎しみと悲しみ。あんな風に笑って過ごせない自分を呪い、あんな風に笑って過ごせてる他の家族が信じられず、許せなかった。憎くて憎くて、いつか殺してやろうと思って、だけど今、後ろからまた追いかけて来るのが怖くて、思わず振り返った。
 坂道のはるか下に古くて小さな遊園地。その向こうは海。湾内の静かな、紺碧の海。吹き抜ける風は濃密な潮の匂いが溶けていて、それが鼻の奥でツンと刺さった。

 過去を食い尽くし未来を貪る怪物がいる。この世界のどこかに。
 その怪物から逃れるために選択を繰り返して生きて行く。人生には無限の可能性が存在する一方で、もう片一方の選択されなかった未来もまた遥か無限の彼方に続いてゆく。雲の行く先、執着の浜辺、時の最果てまで。

 過去を食い尽くして未来を貪る怪物。青い青い、空のような、海のような惑星からやってきた薄青色の巨大な怪物。
 それが、たぶん山羊なんだと思う。
 そいつは無表情で、鳴き声も出さず、ただ黙って世界を端からかじってゆく。
 そうして食われてゆく、それが過去だ。
 後ろを振り向いても暗闇しかない。

 いつまでもすがりたい過去は暗闇に浮かぶ夢物語、美化された名作映画の不出来なリメイクでしかない。
 瞳の奥の古い無人の映画館で人知れず上映されるその映画は記憶の連なりになってやがて忘れ去られてゆく。思い出すことも、どこかに永遠に残しておくことも叶わない。
 全ては薄青色の山羊が食い尽くし、やがて記憶の存在すらも消してしまう。
 さぞかし楽だろう。忘れたことさえ、忘れてしまえるものならば。
 山羊はその美化を焼きつけ焼き増したフィルムを片っ端からかじってゆく。

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