色んなことがあった。あり過ぎるほど、あった──
退屈せえへんかったよ。滋賀の田舎から引きずり出されて、掻っ攫われるように愛知県へ連れて来られてからの長い長い月日があっという間に駆け巡る。これが走馬灯ってやつやね、と、この期に及んでもまだ少し冷めたような口調が脳裏に浮かぶ自分がいる
だけど、もうそんな脳裏とやらも、消え失せてしまうのだろう。意識や魂というものが実際に存在するとして、それはいつまで其処に在って、そしていつから何処へ消えてしまうのだろう
借金も作ってくれた、何度も浮気してくれた、その度に泣かされて凹まされて来た。だけど、幸せな時間も作ってくれた。多分それは、貴方の優しさや心の穏やかな時期に見せる顔で。泥のように落ち込んで沼のように沈んだ、あの辛く寂しい日々を過ごさせてくれたのは、また別の顔だったのだろう。何度も仕事をコロコロ変わった時期もあった。せっかく勤めた会社を急に辞めると言い出したことも、その後なかなか定着出来ずに、人知れずショックを受けていたことも、私のほかに何人か、いつも遊んでた女の子がいたことも、得意先と飲み会があるとか、車の調子が悪いとか、その度いろんな嘘をついて受け取ったお金を右から左へ女の子に渡してたことも
全部、知ってたよ
隠しているつもりで、黙っているつもりで、上機嫌でしかめっ面を作って出かけてゆく背中に、何度ナイフを投げつけたか。心の中で、だけ
知らなかったことを知らさせて泣きわめくことより、知ってて笑顔で送り出すほうが、どれだけ辛く虚しく悲しかったか。だけど、もういいよ。今更言っても仕方がないし、許してやらない代わりに、もう少しだけ一緒にいてあげる
生まれ育った町内、実家のすぐそばを流れる小川のほとりで、気が付くと大好きだった柴犬もみじの散歩をしていた。そういえばあなたと最初に二人で歩いたのもこの道で、こんな時間で、もみじの散歩だったね。今は、もう田んぼも小川も全部埋められて造成されて、小ぎれいで安っぽい住宅地になっちゃって。実家もなくなった。文字通り見る影もない故郷の、あの頃いちばん幸せだった記憶の中の夕焼けがまるでこの世の終わりみたい
「おかあちゃん」
不意に呼ばれた懐かしい声に振り向くと、小さいころ事故に遭った子供が立ってた。あの頃よく着てたパジャマ、遊んでたヒーローのソフビ、髪形も笑顔もそのまま
「あのねえ、おとうちゃんとおかあちゃんが来るから、お迎えに行って来いって」
その目は、あの時のまま。クリクリしていて無邪気な瞳。どうして、この子が。どうして、うちの子が
何度も何度も悔やんで泣いて、誰か代わりに死んでくれればよかったのにって
そんなことまで思ってた。そう、具体的には義妹。アイツ。どんなにわかり合おうとしてもムリだったアイツ。わがままで自己チューで都合のいいことしか言わない、タチの悪さじゃピカイチだった人生最悪の同居人。何度も何度も、お前が代わりに死ねばいいのに、なんでお前がのうのうと生きてる、と思ってた
そうしたら数年後、盲腸をこじらせた腹膜炎で呆気なく死んでくれた。あんなに嫌な奴はさぞかし世に憚って長生きしやがるだろうと思っていたから拍子抜けだったとの同時に、なんだか怖くなってそれから他人を呪うことはやめることにした
「ねえおかあちゃん、今からねえ」
これからどこへ向かうのか、そこで誰が待っているのか、幼い言葉遣いで教えてくれようとする息子の頭をそっと撫でて
(やっと三人になれたし、これで良かったんかな)
と思って、ふと目を閉じて深呼吸をする。乾いた稲穂と土くれの匂いが十一月の冷たい風に混じって、胸の奥まで染み込んでゆくみたいで心地よい
吸い込んでも吸い込んでも、まるであばら骨の隙間から漏れてしまうように呼吸が浅く満たされない。肺の奥に入っていったはずの空気がどんどん薄く心細くなってゆく
目を開けても、もう夕焼けの道もふたりの顔も見えなくて、冷たい暗闇に向かって体が浮かぶように沈んでいる感触だけが細くなってゆく糸を伝ってきた
じわり、と、ひと際深く何かが沈んで、夕焼けに燃える故郷を一瞬だけ空の彼方から見下ろした
コトリ、と音がして、毛足の長い緋毛氈の上にマグカップが落ちた。カップの中に残っていたカモミールがこぼれて、薄暗い色のシミを広げている
ストレッチャーが二つ運び込まれ、落っこちたマグカップに構うことなく運び出されてゆくのは老人と老婆だったふたつの抜け殻
遠くを見つめているような眼差しと、慈愛に満ちた笑顔。しあわせな時間。しあわせな記憶。安上がりな最期
このあと二つの抜け殻は規約に則ってきわめて事務的かつ機械的に処分され、生きた証も処理されてゆく。それすらも、もうわからない
意識は途絶えて、肉体は滅びて、ふたりは幸せな記憶の中で、人知れず生き続けて、誰にも忘れられて消えてゆく
何もかも終わったあとで、三人の足跡だけが記憶の中の夕焼けに向かって続いていた
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