#不思議系小説 第167回「まるい空の向こうに」

 片面は扁平で片面は雨粒のような曲線を描いた、握り拳ほどの青く透明なガラス球が雑然としたテーブルに転がっている。手に持つとズシリと重い。扁平な面を下にし、埃を払ったテーブルにそっと置いてみる。ゴトリと低い手応えを残し、半球型のガラスドームが窓から差し込む僅かな明かりを反射して鈍く光る。

 ニューロンのように伸びた珊瑚と色とりどりの海水魚の群れ。そして無意識から生まれて泳ぎ出したような深海魚たち。水中に煌めく深紅の硬貨は、すでに価値を失って久しい。
 手足を鈍く動かせば、銀色のあぶくが立ち昇る。切り貼りした写真が思い出になって沈んでいる。笑っている顔、泣いている顔、驚いている顔、失望と軽蔑の入り混じる顔、殴られて腫れた顔、殴り返す怒りの顔、わたしの顔、あなたの顔。顔、顔、顔。

 夢の終わりの海の底を萎えた瞳で泳ぎ回る手探鮟鱇(テサグリアンコウ)の胸鰭が不意に触れた幸福な過去。光など殆どと言っていいほど届かない、灰褐色に萎えた瞳に反射した美しい日々。断片的な記憶。重金属混じりの濃脂驟雨が降り続き、アブラ塗れの濁流が押し流していった、ささやかで平和なくらし。

 あの日、まだ世界に季節や天気や風情が、今より遥かに残っていたころ。
 見上げた空に湧き上がった、油膜を帯びてぬらぬら光る低い雲。どす黒いその雲こそがアブラをたっぷり含んで湧き上がり、たったひと月で豊かな故郷を死の国へ陥れた凝縮濃脂雲塊の群れ。

 お空に黒い虹が出ているよ!

 と無邪気に指さした息子も、それを見て不吉な予感を感じて息子を抱き寄せた妻も、買ったばかりのクルマもイエも全て、ごわごわごわ……と身体の奥底まで響くような音を立ててアブラの雨が飲み込んでいった。
 ひとり残った暗く澱んだ空気と水だけが溢れる世界で、仕事も糧も希望もなく、未来という言葉の意味すらアブラに濡れて火も点かない。一切の、明るさや楽しさと言った意味をも含めた、光という光が失われたまま、漫然と生きている。

 まるでどんなに傾き、つんのめっても、何事もなかったかのように立ち戻り素知らぬ顔をするジャイロスコープのように、芽生えた希望や生きる糧は即座に摘まれ、そこにアブラの雨が降り注ぐ。
 もはや値上げなどせずとも手の出ない燃料、衣類、嗜好品。瓦礫の山から掘り出した合成食糧の缶詰や異態進化したミュータントを捕まえて飢えをしのぎ、今日のところは大して濡れなかった場所を探して眠りにつく。

 こんなに狂って壊れて滅んでしまった世界なのに、自分たちだけは生き延びてしまい、体の摂理に沿って腹を減らしたり眠気を覚えたりする。それだけがマトモなのか、それがいちばん狂っているのか。

 丸く閉ざされた海のなかで手にした深紅の硬貨に描かれた、お馴染みの肖像。
 ふさふさした黒い髪、太い眉、意志の強さを表す眼差し、立派な口ひげをたたえた偉大な英雄がコッチを見ている。


 見るもの全てを抱擁するかのような慈愛を湛えた眼差し。見るもの全てを威圧するほどの恐怖を覚える眼差し。畏怖、悲哀、同情、軽蔑。それは見る者の心の色をうつして光る深紅の肖像に刻んだ瞳。
 たとえ目を逸らし手のひらで握り締めても、お前の指紋を焼くことなど容易いのだぞ。と今にも野太く低い声でゆっくりと喋り出しそうな。お馴染みの英雄。

 光も希望も人生も肉体さえも遂に失くした僕が瓦礫になり損ねた小部屋の中で、じっと見つめているガラスの中に閉じ込めた小さな海。かつてこんな海が、あのアブラの膜の押し寄せる前の世界には広がっていたという。それはあのアブラの雲が覆い尽くした空が、やはりかつて海と同じ色をして広がっていたというのと同じくらい、にわかには信じられない話だった。

 窓の外は灰褐色の世界。崩れかかった集合住宅の小部屋の一つで、いま僕の手のひらからガラスの海がこぼれて落ちた。

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