干潟のあぶく
目を覚ますと、車窓の流れが心なしか緩やかになっているようだった。
どこの街並みもそう大きくは変わらないが、やはり旅先で見る建物や道路、線路、ヒトの流れというのはいいものだ。
特別室の旅は快適そのもので、実によく眠ることが出来た。思えば数時間でも熟睡したのなんて、どれぐらいぶりだろう。
時代がどんなに変わっても、機械がどんなに優れても、あの妙に割れてガニガニした声の車内アナウンスは変わらない。そのお馴染みのガニガニ声で、次が終点のトライアンフ大阪 であると告げてた。
混み合うプラットフォームから改札を出て、第二ネオ梅田東駅まで地下通路で移動し、地下鉄ミドースジ線で南下して難波で降りたらミドースジを少し北へ戻る。トライアンフ・オーサカ南部で随一の歓楽街は戦後ますます活況、いやむしろ賑わい過ぎて混沌の様相を呈していた。
職を求め、慰安を求め、ヒトやカネやカラダ、酒、あらゆるものを求めてやって来る人々と、それを出迎える店や人。そしてもうちょっとロクでもない店や人。人外外道。
夕刻に近づいたミドースジは今夜もこれからまた始まる狂乱のひと時を前に、みな一様に高ぶった顔をして往来を歩いてゆく。
店先には呼び込みが立ち並び、我先にと往来で声を張り上げている。可愛い女の子がメイド服やチャイナドレスにセーラー服、果ては水着姿で甘い声を投げかける一方で、スーツを着た男前のお兄さんが物憂げな顔でマダムを狙う。だみ声のハチマキ親父が自慢の焼鳥や鉄板焼きを喧伝すれば、鍋屋の女将は白子が煮えてる精力満点と淀みなく歌い上げるようにがなっている。
そこに、アチコチの国の言葉が飛び交って皆一様にボリュームを上げて話すものだから、最早何処の誰の言葉がどこの国のモノだかもわからない。自分が今、いったいどこをほっつき歩いて居るのかも危うくわからなくなりそうだ。
喧しく騒々しい、無国籍情緒溢れるミドースジの日が暮れる。燃えるような夏の夕暮れに圧し潰されそうになりながら、僕はとある古い雑居ビルを目指した。
元は外国の領事館だった建物を目印に左に折れると、ミッテラスジだ。大阪では筋と通があって、地図で見ると筋が縦で通が横に走っている。このミッテラスジは筋だけど横向きの、なんだかややこしい場所でもある。
そんなミッテラスジの一角に、日宝三ツ寺会館というビルヂングがある。いつでもうっすら濡れた路面から酒と夜の匂いが立ち込めている交差点に聳え立つ築百年近い建物だ。ウノ兄さんは、この中の小さなバーだったものを改装して部屋にしていた。元は飲食店の集まるビルだったが、戦前から少しずつ店子が空いて、そこに住み着いてしまう人たちが出始めた。兄さんもそのクチで、何処かの伝手を辿って潜り込んだらしかった。
さーーて、と……探すと言っても、どうしようかな。
減ったとはいえかなりのお店がある。何処かに入って聞いてみようか。ずっと前からありそうなお店がいいな。
階段の傍らに入居中の店の名前がずらりと並んだ看板があって、年代物の蛍光灯で照らされている。その中でも地下にあるお店は、どうも此処で営業して長そうだ。
なんとなく当てずっぽうではあったが、そう見当を付けて階段を下り始めた。ひしゃげた集合郵便受け、曲がった手すり、砕けた階段。あちこちのタイルが剥げて、コンクリートの端っこがどこもかしこも割れてたり欠けてたりする。本当に大丈夫なのだろうか、ここは……。
手始めに、階段からいちばん近くのドアを開けてみる。呆気なく開いた赤い木製ドアの中は真っ暗で黴臭く、かすかに空調の唸る音だけが羽音のように聞こえるだけだった。
「ここじゃない、と」
その隣は鍵がかかっていて開かない。その隣も留守。その隣は……僕がドアを開けたことにも気づかないほど、カウンターで若い男女数名が夢中になってセックスをしていた。冬越しのテントウムシみたいな連中を尻目にそっとドアを閉めて、次の店へ。
「ごめんくださーい」
年季の入ったドアにはステッカーが地層のように重なり合って貼り付けられていて、いちばん下に見えるものが一体いつのものなのか見当もつかない。手垢と摩擦で磨かれきったドアノブが少し緩んでいて、思いがけずガチャンと強く回ってしまい内心焦る。
店の前にはアコースティックギターの形をした看板があって
BARプカプカ
と太字でくっきりと描かれていた。
「いらっしゃい」
ドアの方を向いた男は40歳ぐらいだろうか?
濃いワインレッドのベレー帽に丸い黒ぶち眼鏡の、ヒョロリと痩せた体に簡単なTシャツとジーパンという出で立ちで、なんとも肩の力の抜けたスタンスだ。この人がココのマスターかな。
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