豊かな自然は豊かな社会から!
エコロジーとエネルギーとエゴイズムに巣食う病魔のような連中に蝕まれた豊かな社会と自然の成れの果てが、山肌を覆いつくしたソーラーパネルと空虚になった摩天楼の群れだった。スローガンと裏腹に社会は貧しく、自然は乏しくなっていった。
やがて人工的に天候を操作し、猛毒のガスや液剤を添加した暴風雨を降らせたり、地面に巨大な遊動菌糸生物(アルキトウチュウカソウ)の苗床を仕込んで任意の場所を突き破って発生させたりと自然も兵器の一部となった。
そのしっぺ返しを喰らって滅びる時が来ることなど、誰も思っていなかった。この美しい国では、そんな不都合で美しくないことを思っていると表現したり、表明したりすることも、思っていることすら許されなくなっていた。そして社会は滅び、美しい自然だけが残された。
森の終わりは唐突に訪れた。正確には、巨大な壁にぶち当たることで前に進むことが不可能になった。後方2メートル半くらいから森が終わり、緑の草いきれを掻き分けて歩くこと数歩。見上げた真っ青な、狂ったように晴れた空に向かって聳え立つ、巨大なコンクリートの白壁に陽光が反射して、上の方が眩しくてよく見えない。どのぐらいの高さがあるのか、想像もつかないくらいの、巨大な白い壁。
そもそもこれはなんの建物なのか。何かの施設なのか、砂防ダムなのか、単なる壁なのか。ブロックを組み合わせて作った形跡もなく、継ぎ目やヒビ割れも無い。ただ一面の、山肌に沿って作られたコンクリートの白い壁。法面のようでもなく、もっとまっさらで平らな、かつ急角度の斜面。
窓もない、出入口も見当たらない。定礎も所有者を示す掲示物も無い。
この見渡す限り殆ど文明の滅び去ったような場所で、何故この壁だけ、こんなに綺麗に残存しているのか。しげしげ見れば見るほどわからなくなる。
空、壁、光、太陽、壁、空、光、太陽、森、らせんを描いて突き刺さる陽光。木々のざわめきを背に浴びて、吹き抜ける風の匂いを吸い込んで、そっと白い壁に手を触れてみる。
真新しいコンクリート独特の、さらさらした手触りが心地よく、少し暖かい。
それは陽射しを浴びた熱ではなく、もっとこう、なんというか、温もりと言う言葉が相応しい感じの温度だった。
まさかな。
自分の頭を一瞬よぎったバカな想像を打ち消すために上書きした言葉が、つい自然と口からこぼれて草いきれのなかに消えた。
手のひらを伝って、かすかに感じるゴォーっという気配。この白い壁の奥深くで、何かが勢いよく流れているみたいだ。そのまま手のひらに意識を集中させる。閉じた瞼の上を汗が垂れてゆく。わんわか渦を巻く蝉時雨、じりじりと照りつける太陽、足元から立ち上る湿度を孕んだ青臭い気流。そして確かな気配。
血流のようにゴォーっと鳴る轟音の向こうで、何かが脈打つ手ごたえがある。
それは本来、固く冷たい物質であるはずの真っ白いコンクリートの壁全体を緩慢に揺り動かしながら、自分がここへ辿り着くよりも遥か前から、脈打ち轟音を響かせながら、ずっとそうしてきたのだと。無言のまま伝えようとしているかのようだった。
ゴォー、ゴォー、ドッコン、ドッコン、ドッコン……
ゴォー、ゴォー、ゴォォーー、ドッコン、ドッコン、ドッッコン……
それは確かに、命の気配だった
それは微かな、命の証しだった
脈動、鼓動、胎動……?
ああ、この壁は生きているんだ……!
それに気が付いたときには、すでに遠くでもっと大きな音が鳴り響いていた。間もなく山全体が揺らいでしまうほどの、かつてない大きな振動が自分の足元にも到達し、激しい揺れに立っていることすら困難になってしまう。背の高い草いきれの中を転げまわっている、そのさなか、見上げた真っ白な巨壁が遥か上からゆっくりと縦に開き、中から全身が濃いピンク色の粘液に覆われた巨大な赤ん坊が顔をのぞかせ、半開きの目でこちらをジロリと見た。
そしてそのまま、地割れの中に飲み込まれていった。真っ暗な、永遠の暗闇のなかで押しつぶされながら、あの赤ん坊の正体を少しだけ考えた。
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