#不思議系小説 第144回「Solarisの呼び声(後)」

 ラジオだけが鳴っている暗い部屋でひとり。にじんだ血が指と指のあいだをすり抜ける。見上げた天井がゆっくりと時計回りに動き出し、スピーカーから流れ出る音楽が目の前の光景から浮かび上がり遠ざかってゆく。
 世界が突然色褪せて、記憶から光が消えて、景色から音が消えて、何もかも失ったモノクロームの静かな夜にラジオだけが伝えていた。
 ソラリスの呼び声を。

 引き裂けた皮膚から流れ出る真っ赤な血潮に、あとどれぐらいの化学物質と数式を溶け込ませたら僕は眠りにつけるだろう。蠢く筋肉と腱と軟骨を縫うように走る毛細血管がひとつひとつ膨れ上がっては縮み、脈打つごとに生命力を吐き出して垂れ流す。
 確かに。
 無様に。

 割れた肉の隙間から流れ出した血液に交じる黄白色の脂。油膜の浮いた血液を循環させ続け、疲労と不純物とがとめどなく堆積してゆく大動脈の鍾乳洞。夜空を見上げれば星が見えるように肌を切り裂けば肉が見えるし、星も見えないほどの灯りとガスに汚された夜空のように脂と膿にうずもれて血肉に刃先が辿り着かない奴もいる。
 月明かりのナイフが暗い雲を切り裂くことは出来ても、文房具のカッターナイフじゃ分厚い脂肪に覆われたこの腕を切り裂くことは難しい。

 子供の俺が年だけ食って、疲れ果てて生きてる。忘却には救いがあるが、消却には後悔しかない。忘れて生きることは幸福だが、消さなきゃならない過去はどんなに埋めても沈めても、いずれ再び顔をもたげて自らを苛む。忘れたい過去、消したい傷。
 悲喜こもごも、などという美辞麗句で脇腹をくすぐられて無理やり笑っているのは確かに僕だが、泣いてる僕は誰だろう?

 冬の晴れた日。
 笑うことを忘れ泣くことにも疲れた僕は人知れず切符を買った。
 単線の小さな私鉄に乗って海の見える街へ。
 長い長い河に架かった、か細くておもちゃのような鉄橋をガタゴト渡る。
 青い水面に年代物の赤い二両編成がゆがんでうつる。
 掴む人のない吊り革が左右に揺れる。
 やがて窓の外は晴天の街並み。
 県道を見知らぬ人々の自動車が行き交う。
 車内に他の乗客は無い。

 ひび割れたスピーカーとアナウンス。赤い二両編成が聞いたこともない小さな駅に滑り込む。ドアが開き冷たい空気が流れ込むものの、乗り込む客はやはり無く、エアレーションの音だけ残してガラガラとドアを閉め、再び青空に向かって伸びた高架をゆく。
 やがて緑の多い里山に差し掛かって、そこから坂道の多い住宅街に入る。
 跨線橋のたもとにある無人駅。がらんとして、ここにも乗客はいない。すぐにドアが閉まり、緑のにおいのする空気だけが車内で少し心地よい。

 赤い電車はのどかな田園地帯に差し掛かった。刈り取られた茶色と黄色が多い田んぼ、土くれをむき出しにした畑、たまに線路沿いに建つ家や古い商店がぽつぽつと見える。
 そんな何もかもが色褪せたような風景のなか、踏切を待つトラックの運転席に憂鬱を苛立ちでかみ殺したような顔の自分が居た。

 何もかもうまくいかない、だけどなんの打開策もない。明日も明後日も、週末までこんな風にイライラし通しで過ごして、また来週も同じことの繰り返し。
 毎週、毎日、違うのは憂鬱と苛立ちの原因と種類だけ
 断ち切ることは出来なくても、逃げ出すことや投げ出すことくらいならきっと出来るというのに。行動に移す気力も余力も失い、その憂鬱が憂鬱を呼び、苛立ちが苛立ちを呼ぶ。自分で自分を縛り続けてまた繰り返す。

 狭い座席の赤い電車に乗った僕が、憂鬱をボンベに充填して運ぶトラックの運転席で苛立ちをかみ殺す僕に向かって叫ぶ。窓を叩いて、声の限り。
 僕をもっと快適な場所へ連れて行ってくれる。多分きっと。だから僕も、僕みたいに、早く乗るんだ、赤い列車に!
 そして心のなかで耳を澄ませろ!
 その音質の悪いステレオから聞こえてくる、太った男の深夜放送にヒントがある。
 カギはそこに隠れている。
 僕には聞こえるはずだ。
 電波にまぎれたソラリスの呼び声が……!
 
 やがて赤い電車は海の見える終着駅に着く。
 さびの浮いたトタン屋根に覆われたコンクリートの武骨なプラットフォームが潮風に吹かれて冷たく横たわるだけのさみしい駅。坂道を駆け上がって来た海風がヒョオと鳴り、息を吸い込むと潮の匂いで満たされてゆく。膝から肩へ。
 降りる客は自分ひとり
 乗り込む客はいない
 電車は発車ベルだけジリリンと鳴らし、独りぼっちでガタゴトと折り返していった。

 ぽかん。
 と音がしそうなほど晴れた昼下がりの青空。ホームから見渡せばみかん畑に囲まれた坂道の下に、古いままの小さな遊園地が残っていて、その向こうには青く静かな海が見える。くすんだ銀色の改札には古ぼけた張り紙で当駅無人化の由。
 切符売り場もない。いつのものかわからない色褪せたポスターに火災予防の標語。
 吹き抜ける冷たい潮風。
 快晴の何処か。
 遠く潮騒の音。
 囀る小鳥。
 血潮が、心が、脳の奥が、ソラリスの呼び声で満たされてゆく。

 幼い日々に刻まれた傷跡をひとつひとつほどいてゆくために辿る、過去に向かってのトランスファー。
 さあ、その顔を見せてくれ。
 ソラリスの山羊よ、お前が噛みしめて飲み込んだ記憶の正体を見せてくれ。
 それは痛み、それは苦しみ、そして憎しみ、或いは絶望。影すら浮かばないほど暗く、雲も浮かばぬほどの晴天のもと、長い道のりを辿るための短い休暇が終わりを告げる。

 駅を出て遊園地を目指し歩き始めると、坂道をとぼとぼと登って来る少年がいた。全身、擦り傷だらけで泣いている。涙と鼻血と悔しさと痛みと恐怖、後悔……何もかもが綯い交ぜで、くしゃくしゃになった顔にはその幼さとは不釣り合いな青黒い痣が見える。僕に気付いた彼が立ち止まって顔をあげた。

 ソラリス、お前が導いてくれたのはここだったのか。

 僕の心の中で、あの青く満ち満ちた惑星の水面で泣き続けていたのはお前だったのか。
 年老いた僕は子供の僕の手を取って、古い小さな遊園地に向かって歩き出した。痛みに、悲しみに、憎しみに、自分の心に憂鬱と苛立ちを植え付けた選択肢に決着をつけてやる。
 振り向いた小さな駅のコンクリートの柱には、白く薄汚れた駅名標。
 
 そこに書かれた駅名は、ひらがなで

 こ ど も の く に

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