人間を穢せるのが人間だけなら、人間を聖められるのもまた人間だけなのだ。
僕は二階建ての終着駅の階段を一人で降りて、シャッターが下りて久しかろう売店の前を横切った。立ち並ぶ自販機に目もくれず、そのまま無人改札を出て南口から海岸に向かってゆく細い路地をポクポク歩き始める。
海の近い町って、壁や屋根が不思議とそれっぽい風合いをしている。なんとなく白っぽくて、戸板に潮風が染み込んだような風情がある。ような気がする。
駅のすぐ前にそこそこ立派な、赤茶けた色合いのレンガをあしらった四階建てのアパートがある。彼女が住まいにしていたのもココだ。
一階はテナントになっていて、通りに面した角には「バーバラ」という昔ながらの喫茶店がある。店の名前のバーバラは、店主の奥さんの飼い猫の名前だったのだそうな。この店が気に入ってよく通っていた彼女が、いつの間にか店主夫婦と仲良くなって聞き出していた。
そのバーバラの隣から順に事務器屋、接骨院ときて、一番奥にはこの辺りで唯一の小さな本屋さんが入居している。奥から二番目はずっと空き店舗のようだ。
僕はこのアパートで彼女と過ごし、気だるい朝を迎えることを何度も夢想した。
南向きのベランダからは、すっかり明るくなった陽光があふれ、分厚いカーテンの隙間から強引に流れてくる。そんな時ふと見れば、あどけなく安らかな寝顔がそこにあるのだ、と。
そして時々、美しく赤い唇の端から涎が垂れて、朝陽を反射してギラリと光るのすらも愛おしく、いつも眠ったままの彼女を起こさないように身支度をし、一言だけメッセージを入れてアパートを後にする。
後ろ手で閉めたドアの電子錠がカチャリと掛かる音が、また僕と彼女の生活を分け隔てる音のようで、いつもなんだか少し悲しかった。
起きて話して微笑んでいる彼女が目の前に居たら、きっといつまでもここを離れることが出来ないだろうから。
なんて。
農協が経営している食料品や園芸用品のコンビニふう販売店とガソリンスタンドの前を通り過ぎると、少し道幅が広くなる。対面の灯油タンクを囲んだ低いブロック塀に、色褪せた防犯ポスターや市町村合併前に設置された町内の案内看板がいつまでも残っている。
海に向かってなだらかに続く下り坂から見渡す低い屋根の古い家並み、その向こうに冬の初めの鈍い海。
アスファルトでなく、小石の混じった白いコンクリートみたいな舗装がなされた細い路地が左右に伸びた先には、潮風を防ぐ植え込みの木立やサビの浮いたトタンの壁、鏡色の奇妙な果実が幾つも実ったようなカーブミラー。
とっくに閉店して屋号が半分消えかかった看板と、かろうじて稼働している煙草の自販機だけが残った古い商店の前を郵便局の赤いカブがドルドルドル……と通り過ぎてゆく。
その埃をかぶったガラス戸にうつる僕の姿は、今日も何だか憂鬱そうで、その沈鬱の影の中に劣情や下心や下卑た期待などというものを押し込んで歩き続ける。
この町で唯一の国道にしてメインストリートを横切って、狭い路地をさらに海のほうへ。ここまで来ると海の家やシャワー付き駐車場、昔ながらの旅館、温泉ホテル、ラブホテル、ラブホテルの廃墟、それらの看板などが増えて来る。
これより海まで徒歩(私なら)1分!
と大書きされた駐車場の看板に新聞社のロゴ入りビニールペナントが揺れている。
両側の民家の生け垣が道路にせり出してきて、古いコンクリート造りの旅館跡らしき四角ばった建物が冬空の下で所在無げに佇んでいる横を黙って通り過ぎる。
茂みからノコっと顔を出したチャトラの野良ネコが、僕の顔を見てつまらなそうに路地を横切った。
そのまま古い民宿や企業の保養所の前なんかも通り過ぎて、ボトルネックになった路地を抜けた先に彼女の店があった。辺鄙なところに思えるが昨今の不景気で大都市近郊の保養地が人気になっているとかで、海の家とかお土産物屋さんとかBBQも出来るカフェ以外にも、代替わりして残った旅館や民宿に加え新しいゲストハウスや小さな飲食店が海沿いの集落に入り混じるように点在していて、海水浴シーズンじゃなくてもそれなりに人出はあるようだ。


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