第58回「神経の海に溺れているよ」

 神経の海に溺れているよ。一つ目クラゲとイカデビル、泳ぎ回る力もなく、浮かび上がる波もなく、沈む時はあっという間で陽射しも届かぬ海の底
 枯れた手のひらをなぞる小さな柔らかい手。瑞々しい指先で描かれた梵字の意味を調べていたら夜更けの鐘が二つ鳴る。僕が生まれるずっと前、おじいちゃんがおばあちゃんと結婚する前からある振り子時計が飽きもせず壊れもせずボンボンと毎日鳴る
 おじいちゃんの顔におばあちゃんの目がついた手のひらで、記憶の糸を手繰る。握り締める旅に悲鳴が上がって血が垂れる。僕に流れる二人の血、僕を作った二人の血
 血染めの糸を辿って行き当たる記憶の数々、過ごした日々、時々現実逃避。広い国道から逸れた県道。この片側一車線の狭い通りが、かつてのメインストリートだった。今は大きなバイパスが通って三桁の番号を振った国道がメインストリート。中央分離帯には大きな楠が植えられて、行き交うトラックの銀色の背中にも涼しげな影を落とす
 狭い通りを挟んで左にアポロマークのガソリンスタンド。その向こうは海。取り残された県道の片隅で営業を続ける天井からホースを垂らしたアポロマークのガソリンスタンド。赤と白のストライプ模様のユニフォームが初夏の風を浴びてまた一つ色褪せてゆく。長年袖を通し続け、赤も白も薄れてしまい汗をかいた肌着が透ける。日焼けした顔に刻まれた皺の奥深く、老廃物と角栓の渋滞もいつしか終わり、まとめて酸化したまま腐敗し汗を浴びるとプイと臭う。新陳代謝の成れの果てが初夏の風に乗って、また一つ色褪せてゆく

 自分にご褒美、なんて言葉が嫌いなんじゃなく他人が自分にご褒美を与えているのが単に気に食わない奴が今日も他人のご褒美に唾をかけ石を投げ砂を混ぜて台無しにしようと手ぐすね引いて待っている。ご褒美の画像と感想を送り出したが最後、蟲毒にもあぶれた中途半端な糞虫が寄ってたかって食い物にする。他人のささやかな幸福すらも許せないくせに、自分にはそれを貪り台無しにする権利があると吠えている。クソ無視を決め込めば断末魔の代わりに得体の知れない罵詈雑言を残してゆく
 
 秋だね。何時の間にか、また夏が終わって。すっかり涼しくなるころには夏のことなんて一度すっかり忘れちゃう。また暑くなりかけの、梅雨前くらいの時期になると思い出すから。それまで記憶も陰干ししながら仕舞っておく
 去年の今頃は、と思っていたのが、一昨年、数年前、と来て。来年ついに十年前の大台に乗る。もう十年も経ってしまった。人生で最高の一日、最高の夏、最高の相手、最高のアナルセックス
 僕は仕事を何度も変わった。君は会社の求人ページで顔写真と名前付きでニッコリ微笑んでいた。十年勤めれば流石の不景気でも基本給くらいそこそこ上がっているだろう。地方のそこそこの会社ならそのくらいはしてくれるだろう。僕の勤め先も、少なくとも二つ前まではそうだった。どんどん給料は安く、仕事は不慣れでキツくなって、世の中も不景気になっていった
 あの夏がまぶしくって、君のお尻が白くって、苦痛と羞恥で歪む君の顔が今も瞼に焼き付いている。あれから十年が経とうとしている。君の消息はわからない、僕の生活はままならない

 夏が行くたびに思い出しては、秋の訪れとともに忘れ行く記憶。漣のように連なって寄せては返す、年々低く短くなる。記憶の砂浜は遠く、かすむ青空だけが夏のまま
 君はクルマを変えただろうか、彼氏は、家族は、結婚したかな、お子さんは?
 調べて見ました!!
 自分の生まれ育った村に伝わる手毬唄でも調べて、その通りに死ねばいい。あの子の事を調べても、なんにも出てこない。記憶の引き出しが開きっぱなしのまま十年
 今日も神経の海に漣が繰り返す。浅瀬で横たわって身を任せ、記憶の中で溺れているよ

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ダイナマイト・キッド
ダイナマイト・キッドです。 プロレス、格闘技、漫画、映画、ラジオ、特撮が好きな33歳肥満児です。 深夜の馬鹿力に投稿中。たまーに読んでもらえてます。 本名の佐野和哉名義でのデビュー作 「タクシー運転手のヨシダさん」 を含む宝島社文庫『廃墟の怖い話』 発売中です。 普段はアルファポリス          https://www.alphapolis.co.jp/author/detail/376432056 小説家になろう                   https://mypage.syosetu.com/912998/ などに投稿中。 エッセイ、怪談そのほか文章のお仕事もお待ちしております。 kazuya18@hotmail.co.jp までお気軽にお問い合わせ下さいませ
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