裸の君を思い浮かべるよりも、黒い長い重たいコートを翻して波間で笑う君のことを思い出す時間の方が、いつの間にか長くなったよ。
昼間、店がヒマだとよく二人して砂浜に降りて行った。
一方通行の細い道路を隔てて、段差みたいな堤防を乗り越えるとすぐ広い砂浜だから、海に行こうと思ったら迷うより歩いたほうが早い。
行ったことしかない墨西哥の話を、僕は煙草が回ってくると、いつも君に繰り返し聞いてもらっていた。別になんてことのない煙だけど、普段は煙草を吸わない僕にはシーシャの舌や唇の裏側へ直接触れる色付きの煙はとてもよく効いてしまって、すぐに頭の奥がパキパキしてしまうのだった
冬の海は砂も冷たい。
その冷たい砂の上を裸足の君が躍るように駆け出してゆくのを、頭がパキパキくらくらしたままの僕がふらふらと追いかけてゆく。
笑いながら駆けてゆく君を捕まえたい。だけど君が笑っていてくれるのはきっと、こうして広く低い空の下を風に踊る羽のように駆け巡っている間だけなんだろう。それがわかっているから、僕は手を伸ばすけど、指先すら触れられずに追いすがる。
僕の幸せもまた、君を追いかけている間だけだったから。
ひときわ大きな黒い波が鎌首をもたげて押し寄せてきて、どう、と鳴って砕けて引いてゆく。見るからに鈍重な灰色の潮水のなかで渦巻く砂粒の一つ一つが僕に向かって罵声を浴びせる。海鳴りがそのまま脳の奥まで響いてきて、僕をなじる。意気地なしと泣いている。
この道を歩くのも、君の店に向かうのも、ずいぶん久しぶりになってしまった。
理由は簡単かつ情けないことに、僕が生活に困窮していたからだ。仕事で金銭トラブルになって入る筈だったお金が入らず、幾らかの支払いのために借金までした。
本業とは別にバイトを始め、休日も朝から晩まで働いた。遊びに行くどころか日々の生活費にまで事欠く有様だったことでSNSも見なくなった。
行けもしない店やイベントのことなんて、見るだけで虚しく、寂しい気持ちになるからだ。
その間も、何度か連絡だけは取っていた。
と言っても、君から「次いつ来る?」とか「ひま」とか、そういう短いメッセージが来て、それに当たり障りのない答えを返すくらいだったけれど。ある時に思い切って
「実は生活が苦しくて、当分、行けないかも知れない」
と白状してみた。身の回りの連中にも、当然SNSなんかじゃ誰にも言わなかったことだ。言う必要も無い、と思ってた。だけど君は
「オッケー、お疲れ様。待ってる」
と返事をくれた。それがどういう気持ちの動きから出た返事だったとしても、僕はとてもうれしかったし、励みになった。
それからも生活は中々立ち直らず、苦しい日々が続いた。
相変わらずSNSやネットからは距離を置き、スマホは決済と仕事がらみの通話と天気予報くらいにしか使わなくなった。ああラジオも聞く。
だけどそれぐらいにして、あえて暮らしに追われるように過ごしていた。他人の生活を覗き見たり、世間のニュースに触れたりして余計なことを考える時間があると、良いことでも悪いことでも結局どんどん自分だけがさもしく、酷く惨めに思えて来るからだ。
それが漸く落ち着きを取り戻し、バイトも辞めて最後の給料をもらったのが秋の終わりと冬の始まり頃の、今日この日であった。本業も有給休暇を取り、コンビニのATMで引き出したバイト代を握り締めてお店に向かった。
しかし実は、彼女とは連絡が取れなくなっていた。アプリのアカウントは残っているもののメッセージに既読は付かないし、久々にログインしたSNSからは個人アカウントが忽然と消えていた。お店のアカウントは残っていたけれど、更新は夏の終わりで停まっている。
冷たい、嫌な予感がサーッと背中を流れてゆく。
ただあれで意外と抜けてるところもある彼女のことだ、スマホを壊したりパスワードを忘れたりして、そのまま営業しているということもあり得る。
返事が遅いのはいつものことだし、SNSのアカウントなどそれこそ泡沫(うたかた)のものだ。僕は道中ずっと自分に言い聞かせていたことを、頭の中でもう一度深く反芻しながら海沿いの細い道を歩いていた。


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