壊れかけの海上クレーンが軋みながらすくい上げる記憶の泥濘。
夢の産まれる紫の海の底から見上げる、紫の空、紫の海、紫の波、紫の鱗、紫の瞳、紫の唇、紫の肌、紫の鎖、紫の涙、紫の疵、紫の脳、紫の光、紫の心、紫の記憶、その泥に足が沈み飲み込まれて巻き上がる土煙で目が見えない。だけどそんな窒息性の幸せが息苦しくて手放せない。
安らぎに満ちた日々を蝕む、鈍くしつこい頭痛と憂鬱。
混雑する街道、海沿いの県道、四六時中の苛立ちが道路に染み付いてアスファルトの上から塗り込めたような、流れの止まった死人(しびと)道。
いちばん暗くて下衆な自分が俯いて歩く坂道。誰にも見せない顔をして、誰も知らない人に会う。曲がり角だけが見ていた。
馴染みのコンビニ、神社が店の前に、あとは田んぼばかり、長閑な店先。
レジ前とかレジ横とか言うのは前からあったが、遂にレジ上なんて概念が出来た。メニューや単なる広告、タバコや菓子折りを並べるだけでは飽き足らず、何処にでも宣伝広告動画映像をねじ込みたい亡者のような奴が居て。
それで今日も画面の中でにこやかに、明るく、泥臭さや生臭さと対局におりますという顔をした男女数名のクソ共がクソみてえな歌を歌う。イケ好かない奴等のしゃらくさいところを煮〆たような音と声。性のにおいを、生きづらい儘ならなさを、すべて埋め尽くし消し飛ばしたつもりの連中こそ生ごみみてえな臭いがする。
何がPLUSONICAだプラスチックの中の未来から出て来るな。あれを見るたびに反吐が出そうになるし、そう言う自分にまた吐き気を催す。自分で自分の反吐の醜さを知っているから、見たくないものを遠ざけるのに、向こうから近づいてきて、吐いた反吐を見て気分を害する。そんなバカな話があるか。お前のせいだPLUSONICA。
田舎者は暮らしが日照りなのか、暇なのか、見栄を張りたいのか。見た目だけでも楽しそうで賑やかで、意識が高くて賢くて、そのうえで何かしている気でいたいのか。
いま田舎で商売をするなかでマルシェだ市場だコラボだの、狭いところにキッチンカーを並べて値段の高い絶品グルメで彩った意識の高いケンカを売る奴等が数年後、一体どんな商売をしているやら。
休みの日には出稼ぎをして、金が要る時ゃクラファンで、ワクワクするような楽しい企画と言い張って。銀行から借りられないカネを客の財布から直接鷲掴みにしてキッチンカーで去ってゆく。
捨て台詞はきまって
「推しは推せるうちに推せ、お前も客で居たいなら店に会社に金を落とせ」
絶品グルメのかっぱらい。意識の高いカツアゲだ。
自分のあずかり知らぬところで跋扈する裸なんぞ見たって心がときめくどころか胸糞が悪くならないのか。裸を見るや何の疑問もてらいもなく、クソより価値のない言葉を塗りたくりにくる奴は論外として、裸を撮る奴と撮られる人が居て、その無数の連なりが世の中の隅々で蠢いているというのが、他人事だとこんなにもおぞましいのか。
直接的なエロ、性衝動に至るまでの過程こそ愛おしく面白い。
脱ぐのも嗅ぐのも舐めたり重なったりするのも勿論いいが、そうなるまでの過程が無くては面白くない。だから自分が触れられない性とかエロには興味が無いし、そこに割く手間や時間がとことん惜しい。
匂い、毛並み、目つき肉づき体つき、目の前の人がどんな人なのか。
それが知りたいし、何かしてくれているとき、させてくれているときに、どんな顔をしてどんな色やカタチや匂いなのかを知りたい。だから最終的には普通の行為に至るのだけど、そこに至るまでの寄り道が多ければ多いほど豊かな気がする。
大阪から東京に向かう前に、一旦、鹿児島や島根、八戸、函館、札幌、利尻島まで行ってまた仙台、そっからフネで名古屋、伊賀、信楽、岐阜、富士宮、横浜まで行ってまた三島に戻る。そのぐらいの真面目で不埒な悪ふざけで遠回りをするくらいじゃないと、きっと性とかフェチとかいうものは楽しめないのではないだろうか。
無論そのためには心身と金銭の余裕があってこそだ。
なければ妄想でどれだけでも走ればいい。


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